古墳の形状や名前はそんなに重要なのか

小学校で習う日本史はこの程度で良いのではないかという提言2      ~古墳時代~

日本史が苦手な人は、だいたいこの辺りで脱落が始まっていくものと思われます。突然現れる大王やその墓、時折現れる中国や朝鮮と思われる国々の名前。それまで人々の暮らしの文化を覚えてきたはずなのに、突然ジャンルが変わったかのような内容に戸惑いや、その専門用語の難解さに暗記が追いつかなくなっていくからでしょう

古墳と国

弥生時代の後半には日本にはいくつかの有力な国が出来上がっていたものと思われます。その国々は、中国(時代によって国名は変わります)へ使者を送り、正式な国として認めてもらっていました。

その国々の長である「王」がその権力を示すために作らせたのが、自分の墓でした。これを「古墳」といいます。形や大きさは様々でしたが、時代が経つにつれ、その形状が似てくるようになります。それは、圧倒的に権力の強い国が誕生し、その他の地域の国の王が服従して、模倣を行ったものと思われます。

その大きさは、権力の強さに応じて大きくなる傾向があったようです。多数の国が一つの国に吸収、統一されていく中で、はっきりとした身分が出来上がってきた、ということになります。

大和という国

大和(ヤマト)という地域で権力を強めた国です。この土地で自然発生した国なのか、他の地域から、道中の国々を制圧しながら、大和にたどり着いて成立したのかは、諸説あって不明です。やがてこの大和の国に各地域の国が従うようになり、統一された政権が出来上がりました。

統一されたとはいっても、王と家来という立場ではなく、一番強大な国と、地方の権力者たちが手を組んだ、同盟といった形で形成されていました。しかし、朝鮮半島の勢力争いに兵を派遣し、参加をしていたところから統一国家としての形は保ち、内外的にも認められていたものと思われます。

朝鮮半島への兵派遣や中国への使者などの人の行き来から、縄文、弥生時代の頃と同じように、大陸のすすんだ技術、知識が移住という形で日本に入ってきました。移住してきた人々は、今の近畿地方に主に住み着きその技術をもって、日本はさらに発展することになるのです。

朝廷の成立

ヤマトの国が周辺国の統一を進め、やがて、一人の王と、周辺の豪族の長たちが「朝廷」をつくり、さらに小さい豪族たちを従え、その組織の一部にしていきました。そして、従った豪族に身分を与え、組織内の役割、権限をはっきりさせました。

朝廷は、自らが統治する土地と、豪族が支配する土地とを分けました。そして、朝廷が統治する土地の範囲を、徐々に広げていったのです。そのやり方に怒った一部の豪族たちが反乱を起こしますが、制圧されてしまいます。このことから、大和朝廷はかなりの軍事力と権力を持っていたことがわかります。

宗教の伝来

日本にはもともと、山や、川といった、自然のものを神とする信仰がありましたが、このころに「仏教」という宗教が日本に伝えられてきました。中国での医学や建設術などと一緒に、物事の考え方として伝わってきたと思います。そして、その教えを伝えるためには、「漢字」がとても大切な役割を果たしました。

伝わってきた当時は、豪族たち支配階級の教養として広まっていきましたが、やがてその教えは一般の人々にも伝わっていきます。お寺などの建築の技術が、彼らの生活様式をさらに進化させていくのです。

まとめ

弥生時代から、「土地」というものが重要視されてくるようになりました。人々は田畑を開墾するための土地を求め、そこを中心に生活を始めます。やがて、農耕を指揮する人間が現れ、長となります。小さな国の誕生です。

その国がさらに土地を求めて、他の国々と争いを起こし、発展してきます。これが繰り返されて、一つのより大きな国が生まれました。広い土地を支配することによって、より多くの人々を養うことが出来るのです。

王たちは権力の象徴として王の墓をつくり、その威厳を人々に見せつけます。その規模を見ることによって、隣の国には敵わないと感じ、吸収、合併を望んだ国もあったでしょう。

国がある程度の規模になったところで、さらなる発展を求めて、朝鮮半島の勢力争いに参加します。が、それはあえなく失敗に終わりました。しかし、勢力争いに敗れた人々や、その争いで日本という新しい土地があると知った人々が日本にわたってきて、新しい技術を伝えることになるのです。

それは、仏教という教養であったり、建築術、新しい農耕の技術であったりしました。そして、国という制度の作り方だったりしたのです。

この時代あたりから、人々の「生きる」という考え方が少しずつ複雑になってきたのだと感じています。

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