大河ドラマ、麒麟がくるの評価について気になったこと

大変なスケジュールだったと思われる麒麟がくる

2020年の大河ドラマ「麒麟がくる」。開始前からトラブルが発生して、撮り直しを余儀なくされ、さらにコロナ禍における撮影の自粛がかさなり、当初の思い描く展開ではなかったかもしれない大河ドラマだったでしょう。

それでも個人的には大変面白く見ていました。無理矢理12月終了にせず、期間を延長してくれたNHKに感謝です。

ここで今更ですが、麒麟がくるの巷の評価に私が疑問に感じたことを書きたいと思います。

架空の人物が歴史を動かしすぎる点について

麒麟がくるでは、架空の人物、特に医師である東庵、その助手の駒、旅芸人の伊呂波太夫の3人が、明智光秀の重要な分岐点で必ず関わっており、彼らによってストーリーが進んでいく。という点が酷評されています。

一介の医師である東庵が天皇と碁をしていたり、町娘にすぎない駒が将軍と親密な仲になったり、旅芸人が公家や傭兵に対して顔が効きすぎたり。彼らが時代を動かしていったと言っても過言ではないぐらい、明智光秀の行動に関わってきます。

批判の主たるものはファンタジーがすぎるというところでしょうか。しかし、私は許容の範囲内だと思います。

もしこれが、本能寺で信長を討ったのが東庵や架空の人物だったら流石にやりすぎかと感じるでしょうが、かれらの役割は、光秀と、重要人物の橋渡し。

実際も、歴史には名前が残っていない、事務官や地域の顔役が出会いの場を設けていたでしょうから、あながち荒唐無稽なデタラメでもないのではないかと思っています。

名前の残っている人物の下には、それなりの人数の部下がいて、その部下たちが様々な情報を集め、物事を考えるお膳立てをしていたでしょう。ですから、こういった人物がいたであろうという設定の架空の人物がいてもおかしくないのです。

◯◯のはずがない

麒麟がくるに限った話ではないのですが、歴代の大河ドラマでよくある批判が、史実に残っていないエピソードの時に発生する◯◯のはずがない。というものです。

例えば、新撰組!で言われていた、近藤勇と坂本龍馬が、試衛館時代に江戸で出会っているはずがない。どこにも出会ったという文献は残っていないからだ。というものです。

その時に思ったことが、出会った事実は書かれていないかもしれないが、出会ったことがない、という文献もないのではないか、です。

大河ドラマに代表される歴史に関する物語は、史実と次の史実の隙間を埋めて作るもの。そしてその隙間は、想像で埋めるしかないのです。◯◯のはずがない、は桶狭間の戦いで実は、織田軍が負けていた、という設定をするレベルでないと言えないことだと思います。

まとめとして

大河ドラマはあくまでも物語。登場人物たちは年表に描かれていない時間も生き続けています。その史実として残っていない部分を描くには、やはり架空の人物の力が必要になってきます。もし、彼らがダメなら、間者なんかとても使えません。人知れず館に忍び込み、主人公に重要な情報を伝えるなんて、想像もいいところです。実際は、その間者はもっと下の役職にいる人物に情報をもたらし、幾人かを通して主人公に伝わるのではないでしょうか。

本当は、重要な情報を得るために、名も知らぬ実務者たちが苦労しているのです。その実務者たちの働きを架空の人物で表現している。そう思えば、多少のファンタジー要素も許されるのではないでしょうか。

余談となりますが、史実のみをつなぎ合わせた日本の歴史を、邪馬台国当たりの時代から昭和まで何年間かかけて連続ドラマとして作成してくれないかなと、密かにNHKに期待しています。お涙頂戴や、人間ドラマはいらないので、客観的事実を追い求めたもの、でもドキュメンタリーではなく、あくまでもドラマ仕立てでやってほしいです。

コメント

タイトルとURLをコピーしました